生きた記録

自分が生きてきた記録をジャンル問わず書こうと思います。

一生語らないと自分がなくなっていく

はい。季節外れに枠空いてたのでアドベントこっそりと書きます。

本当はアドベント時期に書きたかったものの、去年の某記事を受けてやめてました。

 

同窓会誌にも寄稿し、ぽつりぽつりとアドベントカレンダー寄稿しています、ふまです。

関東に生息しています。

 

さて、2024のアドベントカレンダーを2025年6月末に書くというよく分からない行為をしています。が、なんか病んだ翌日なので文章を書きたくなっただけですので、許してください。

 

あまり人の記事にアレコレ受けて書くのってよくない気がしてるのであえて伏せているのですが、2023年の自分語りやめよーねって言ってる記事ってことで探してもらえれば読みたい人は読めます。

気になるならどうぞ。

 

閑話休題

自分は、自分語りをあまり上手くできなくて、文章ならまだマシだけど常に整合性のある自分・自己がビックリするくらいなく。

このあたり、配偶者にあきれられているというか、喧嘩のタネになってるんですがまぁいいとして、語れる自己が掘り起こさないとないんですよ。

んで、掘り起こしても【その時の】自分でしかなく、本当の自分って何だ?と思いながら手探りで書いています。

ただ、そんな状態だからこそ文章に起こすとその時の自分が何を書きたいか、何にフォーカスしているか、何を思ったかを残しておくことができます。

例えば、自分はよく「死にたいなぁ」と漠然と希死念慮を抱くことがあります。これに関してはもう一生消すことが出来ないので付き合い続けていくしかないんですが…

自分語りにこの文脈で行うと「なぜ」「どんなときに」「なにが」つらいのかを言語化出来、自分でも自分の感情に気付くことが出来ます。

自分と向き合う行為は、一番他者との交流に役立つ、と考えています。

これに関しては他色々意見があると思うのですが、自分を知らずに他者と深く関わることは出来ないし、自分語りを行う上での発信が他者の興味を惹き、他者との交流のきっかけになることもあると思っています。

もちろん、大人になればなるほど、自分の考えに固執すればするほど、他人から見て異常な自分語りになる可能性も高く、いつまでそんなことやっているの?と思う気持ちもわからなくはないです。

 

いい加減元の記事に触れていくと、「自分語りをするのはいいが、外にも目を向けろ」が主な趣旨と捉えました。間違ってたらごめんなさい。

自分のことを語って、語っていかないと、苦しくないですか?

そもそもどこまでをどう切り取って自分語りというのかは不明なところではありますが、上辺の話をしたり、落とし込みをうまく出来ないと進捗がないと言われたり、話したい文脈を作れなくなって本当に苦しくなりませんか?

自分語りを終え、次のフェーズにって2人(元記事の引用元記事があるので)とも言っていますが、その次のフェーズでのアウトプット方法って、結局自分を考え考え、興味がある方に進めた人だけが出来るようになることじゃない?

分からない、何もわからないんだ。昔からふまは周りの空気を読んで、うまーくやろうとする割には何か滑って(アスペほど盛大じゃないにせよ)、語るものもわからず、生きるのが本当に苦しいだけなんだ。

そんな自分からすると、ただ漠然と死にたいと思い続けているふまより、よっぽど語っている自分が素敵に見える。

ものにもよる。が、筋トレも【理想とする姿】がなければ続けるのは非常に難しかった。ジムに週4で通ってたこともある。パーソナルトレーニングしたこともある。でも、本当に自分がどうでもいいんだ。続かないし、どうなりたい?って聞かれた時に応えられなくて、答えられなくてダメだった。頑張れなかった。

制作などでアウトプットするにも、自分の中の作りたいものを言語化(=自分語り)した方がうまくいかない?挑戦が好きなので色々試してみることはあるが、理想の形・やりたいことがなく、すぐにやめてしまうんだ。

 

結局、何をするにあたっても自分が大事。

筋トレも、制作も形を変えた自分語りの一種。

じゃあ、その発露が会話でも・文章(=アドベントの場)でも良くない?

 

人が好きなだけで、自分が一切ないふまから見たら本当にうらやましいよ。

その、形に出来る自分があることが。